暑い日は冷やし中華が食べたくなります^^
つるつるコシのある麺をかみながら、愛について思います。
クライアントの方の多くの話にある傾向のひとつですが、
なぜひとはすぐ目の前にある愛を、恐れるのでしょうか、
そしてそれにくるりと背を向けて、みずからその綱を断ち切り、
みずから愛に裏切られたと叫ぶ、絶望の沼へと落ちようとする。
論理的な言い訳がそこには確かにあります。
そのプロセスを受容することも、
カウンセラーという心の器をつくる仕事人としては重視します。
それにつけても、なぜその愛を信じることができないのでしょうか。
目に見えないせいで、自分の信じる<絶望>へ自らを駆り立てる行為が、人の中にはあります。
ひとつには「学習」の問題は大きいと思われます。
それは面々とつづく家系の因縁によるところはあります。
それをくつがえさんとして、(ときには受容しようとして)
私が魂の受けとめ手として、愛の求道者として、鍛えてきましたのは
「愛の粘り」「愛の持久力」「愛の体力」です。
(私だって、始まりは、愛に怯えまくっていました。
世界中が私をHATEしていて、すべての女性に自分が劣っているように見えるという、
分裂的強迫神経症を無意識に背負っていて、きつかったです)
愛に懐疑的なひとは、自分とは異なっていて自然である世界観を持つ
相手の態度をとかく否定的にとらえる傾向があります。
支配的で、自分の世界観のなかに相手を引き込もうとします。
そして、それが得られないと堪えられなくなったとき、関係を切ろうとします。
さもないと、身を守ることができないからです。
自分の幻想の檻のためであるとも知らぬままに。
もっとも、それは精神と心の発達プロセスとして、とても必要な段階です。
自分の身が守れる世界で、個は熟していくからです。
けれども、愛あるアプローチは、異なります。
自分とは異なっていて自然である世界観を持つ相手の態度が
自分の辞書において否定的な意味を持ったとしても、背中を向けません。
「私たちの関係は永遠ですよ」のかまえをとりつづけます。
「あなたが私のもとをさっても、私は永遠にあなたの味方ですよ」と。
自由な選択を相手に与えながら、墓場まで、あの世まで、離れない姿勢をしめします。
実際に接点があるかどうかは、愛には問題ではありません。
永久に、魂が、ともにある。
それを信じられるし、それを喜べる。
その心を持った人間と向き合うとき、ひとは「愛の深みとあたたかさ」を経験できます。
愛を獲得する心を育てるとは、それを経験しているか、いなかに左右されます。
セラピストークライアントの関係も、同様であると私は努力しています。
私のもとにいらっしゃるクライアントの多くが、
愛を追いかけていますから、私が愛を経験していなければ、ご提供できません。
「くどい!」「しつこい!」
そうおっしゃったかたも過去にはおられます。
いいんです、それで。思いのたけを私との間で吐けてよかったね。です。
愛の手綱が切れてその苦しみのために私のもとで愛の心の器を養う過程で
ときにすぱーんとその関係にメスをいれてくるパターンが登場する瞬間も
私は認知しています。
それを私は、知りながら、のみこみます。
ああ、今、その過程にいるのですね。と。
受け止め、そして自由の空にもどっていただきます。
自由の空のなかで、自分の存在を守りながら、感じていただくことが、とても大切です。
重要なのは、そこで「私たちの関係はおしまいね」と手放さないことです。
「私はあなたの自由な経過を見守るのが好きですよ」の姿勢です。
加えて、いつでもまた羽根を休める場所は、ここにありますよ、のアプローチを
さりげなく残して。。。。
「ずっと一緒だよ」
まごころからの言葉として、私は祈りをこめて、
大切な人たち(魂のつながったひとたち・クライアントの方々)に贈ります。
たとえこの世をさっても、私はそのひととつねにいます。
私はいつでも大切なひとたちをそばに感じられるし、事実、そのひとたちの声に耳を傾けます。
一方で、
「母親のことを覚えていないんだよね」といった
好きな彼のセリフが耳にこだまします。
(彼は自分を産んで病気になって若くして母が亡くなったという個人神話のなかにいる)
ここまでにのべてきた論理から考えると、
いったいどれだけ愛の手綱が切れてしまったというのか。
その深い闇と恐れを、どうやって癒せるというのか。
もともと私も怯えの強いタイプだから、このひととしゃべっていると無自覚に
自分もトリガ―されて恐怖にからめとられ、
おかしな言動(びくびく気を使いすぎる感じ)になるのを経験させられてきました。
そのたびに私は分析を重ねたのですがw
圧倒的な愛のドームのなかにはいってかかわらなければいけない、と判断しました。
愛には、恐れとのバトルが布置されます。
ですが、愛は永遠で、無限。枯渇することのない泉です。
どのような矢を向けられても無敵です。
いかなる現実的因子によって断ち切られても、屈しません。
時を待ちます。それまで温めます。卵からひなをかえす母鳥のように。
そして、母鳥は、1人であることを恐れません。
こころは無限にすべての大切なひとたちとつながっているからです。
このブログを読んでくださっているあなたのもとにも
愛の女神のタフネスが宿されますよう、祈ってます。
きょうはこのへんで。おやすみなさい^^★
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