私の魂の中心には、まるで「玉手箱」のような
<めくるめくときめき>感覚があります。(この<魂の中心感覚>は人によって異なります)
この感じを、現実の世界に追い求めるクセに、長年困らされました。
正直、それはある意味<浮かれたお祭り感覚>であるため、
現実にそれを追いかけ続けると、無理・無茶・破綻が起こります。
現実とは堅実さが要ります。
ほとんど多くの人は、自分の魂の感触を、
外の世界で形にしようとしたり、幻想として追い求めたりするのが、自然です。
<夢を追いかけろ>
<夢は形に成る>
と言われる理由でもあります。
ですが!
タオセラピーの思想でひもときますと
その<魂>の方向性が
★精神的な方向の人
★現実的な方向の人
とに分類することができます。
東洋思想は、陰陽思想ですが、とかく対立する二つの要素で一つの次元を構成していると捉えます。
人間を陰陽で整理することを考えた時、
精神と現実の融合であると、4000年も昔から中国の賢者は見抜いていたのでした。
そして、
私の場合、どちらのタイプかと問うた時、
どちらかというと<精神寄り>の前者であるということが分かったのは、
タオセラピーを自ら詰めた時です。
この2〜3年で知り得たことでした。
ですから、私の魂の夢であり、魂の中心にある<浮かれたお祭り感覚>は、
現実に求めるのではなく、精神世界に求めなければ、
<私の個性>には合いませんよ、というわけだったのです!!
そんな〜〜〜〜。<お祭り感覚>に無意識的にも意識的にも引きずられ過ぎて
仕事にせよ、消費活動にせよ(👈お買い物のこと^^)、異性関係にせよ、人間関係にせよ、
あんな破茶滅茶、こんな無茶苦茶、いっぱいぶっちぎってきてしまったではないでスカッ。
と言う気もしますが、
私はこの秘密を探り当てるために、一旦は個性と逆走する必要があったのですから、
まあ、それはそれで万事オーライなのであります。
どれほど現実の世界に<浮かれたお祭り感覚>を追いかけても、
私の場合、ちっとも浮かばれませんし、極端を言えば<万事終焉を迎える>という恐ろしい図。
何せ、私の<浮かれたお祭り感覚>は、現実に許されたものではなく、精神世界に道を譲るために
授かった宿命だからなのです。(それは、タオセラピーで読み解くと見えてくる)
それを、39歳からこんこんと、タオセラピーの思想に従って、
<精神世界>だけに<浮かれたお祭り感覚>を許し、
追いかけ、それを現実に下ろすことを頑張りました。
精神世界だけに浮かれたお祭り感覚を求めるというのは、
私の場合、好きなもの、気持ちいいもの、夢想の中に浸りやすい住環境を整備することでした。
最初に浮かんだのは1920年代のライティングビューロー。
続いて、カフェ専門店のようにコクのある珈琲とお洒落な珈琲カップ。
アップル社Macの大画面。
整然とした空間で、すっきりした境地。
このすっきりした境地を得るために、どのような要素があるとなるか、
インナーワークで点検を繰り返し、
焦げ茶色と白色のコンビネーションにスワロフスキーのクリスタルが煌めくトーンが
私にとっては重要でしたので、揃えたわけでした。
(ケチな私の抵抗は山ほどありましたが、全部ケアして、
抵抗の言い分にも耳を傾け調整し、実行してきました)
そして、現実的な事を一切手放しました。
正直、エゴの恐怖はありましたが、意図して<お金の計算を一切しない>暮らしに集中しました。
お金の計算をするからかえってお金のこだわりが生まれて、
お金を浪費する仕組みがあることを知りました。
「お金があっても、なくても、お金は何時だってゼロ!」
スローガンに掲げました^^
お金という現実的ツールの力を借りて遊びを求めるのではなく、
いかに<精神だけを浮かれさせて>自らが魂の玉手箱になるのか。
ここが肝心でした。
子供の時は、お金がなくても、小石を集めたり、自然の中の虫ケラと戯れたり、
空の雲を数えたり、想像の羽根を広げて、何時間も遊ぶことができました。
あの感覚を、一生懸命に回復させました。
私の場合、人間関係にも<夢見る浮かれ感覚>をともすると投影するところがあるため
実際の人間の善も悪も背負って生きている等身大の日常からかけ離れてしまい、
うっかり相手に自分の願望を投げ込みすぎて、関係を壊すことが少なくありませんでした。
(そんなん、あるわけがありません!!いた!と発見した時は、
自分のカウンセリングの先生だけでしたw)
このプロセスを、私は<精神の神殿造り>と呼んでいます。
その結果、今あるサロンの形が浮き上がってきました。
こうして打ち込んでいるブログのスタイルも固まりました。
好きな人との関係性のバランスもとることができています。
お金の浪費もありません。
(ってか、当初の予測通り、食費以外、全く使わない人になってしまった!)
ーーーそうそう、私の魂の夢見は<あまりにもHUGE(でかすぎ、宇宙なみ)>でしたために、
どのような空間も狭く感じるという、恐ろしい現象がありました。
無意識に宇宙なみ無境界を追いかけているからなのですが。。。
その調整が完了するまで、何度、なんて自分はこの世ユースじゃないんだ!!
と生きづらさを感じたことか。
どのような部屋を借りても、満足するわけがない、自分に青ざめました。
ある時、「うん、この広さはちょうどいいね」と思ったのですが、なんと家賃50万強、120平米、天井の高さが2〜3階分あるような、日本でも最高級のレジデンスだったのでした。
本当に必要???
正直、自分には無駄が多すぎるように思われるのですが、すっきるする空間、それです、となった時は、自分の精神構造の整理すべき方向に途方に暮れました。
私は、取捨選択が、ライター時代から大の苦手でした。
なんでも抱え込みたいタイプ。全部必要に感じてしまうタイプ。
母親からは「くどい性格」の一撃。そういうな!です。
ですが、自己の複雑さをタオセラピーを通じて、山ほど整理し尽くし浄化したおした時
自分の精神が非常に通るのを感じまして、それに比例して、
今ある38平米の空間が実はとても広いと感じられるようになったので、
やっとバランスの取れた自分になることができた!
精神修養が高まってきた!と自分で自分を褒めてあげたい気分です。
そして、高校時代から大学時代に年ごろのせいもあるかもしれませんが、
ダイエットノイローゼだったことがあったのを思い出します。
通ってた高校の周りの友達がみんな美人で、スリムだったせいもありますが、
標準体型というありがたい自分をちっとも許せなかったという、不幸気質の自分がいました。
でも多分私は、部屋の大きい小さいの感覚が、実際の広さを問わず左右される
<幻想>まなこであったことを思うと・・・
この宇宙なみの莫大エネルギーを自分の肉体に投影して、
自分の背格好が不恰好に見えていたのではないかと、察せられるのであります。
今朝、愛犬の散歩がてら窓ガラスに映し出された自分の姿をたまたま目撃し、
「ちっともおデブなんかじゃないのにな〜。(かといって、スリムでもないけど^^)
なんで過去、あんなに自分のことを自ら虐めていたのか?
これもきっと、魂の夢見ているものが、スケールでかいせいで、その幻想のために
自分の体もとかく大きく見えて仕方がなかったんだろうなあ、とほほ、どうしようもないね」
と思ったのでありました。
・・・というわけで、いろいろ自分を追い込んで、
自分の自然エネルギーにぴったりの自分に調整することで
幸運を感じられるようになってきた、新しい自分・それこそ望んでいた自分誕生のお祝いに
今日のランチはお寿司を久しぶりに!
サイトリニューアルのお祝いなのでした。
最後まで御覧いただきありがとうございます^-^
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