私にはたくさんの「悩み」がありました。
- 「書きたい」けど「書けない」>何を書きたいのかも湧きもしないのに“書きたい”だけが浮かび上がる分裂精神
- 異性運がおかしい
- お金の不安
- 買い物依存癖
- 占い依存症
- マッサージ依存癖>体が思い通りに動かない、解離性
- 愛情過多 etc.
自分の足で立つことが難しく
自分を支える代替物として
自分の外のものの力を頼る/頼らずにはいられない状態を指します。
それも……<突き上げる衝動>に振り回される形で!
「一体、私はどうなっているんだ!!」
理性は常に驚き慌てふためきます。
現実が立ち行かなくなる恐怖。
前進できなくなるのではないかという怯え。
膨らめば膨らむほど、ストレスとノイローゼになる分、上増しされて、状態は悪化しました。
そんな折に出会ったのが、こちらのイラストでした。
その書のタイトルは『哲学者の薔薇園』。そこに描かれた、全11枚。
「ぬり絵」をするだけで、1500年代西欧錬金術師が到達した「真理」にアクセスするという、大変にクリエイティブな深層心理のワークとして、消化する機会に恵まれました。
「隠されたプロセス(問題/テーマ)」は「視界」を初めとする無意識に活用している器官を通じて発動しているという、心理カウンセリング学的見解(プロセスワーク創始者のアーノルド・ミンデル氏の『ドリームボディ』参照)をベースに、深層心理の扉を開きました。
初めて取り組んだのは2009年。私の心理の先生のアイディアでした。
「私のありのままが投影している世界」
「私が転移する厄介な異性エネルギー」
「私の本質が求めてやまない方向性」etc.
が顕在化されました。・・・とはいえ、当時はただ「キョトン」として「これは何だろう?」と訝しく首を傾げるばかりだったのですが。
(それほどまでに、人は自分の無意識プロセスに対して、無自覚すぎるのです)。
「人生のパターンのプロット(見取り図)」を手にしたことは確かでした。
「私(の魂)は何を目指しているのか」
「”まぼろし”なのに、事実として誤認すること/ものは何か」
「自分の持ち物(特性)としてマスターしなければ、永遠の輪(カルマ)に苦しめられ続ける、課題は何か」。
これらの解をこの塗り絵のワークは導き出しました。
「人生の旗印」を手にしたことで、無知蒙昧を繰り返していた時に比べて、はるかに肩の荷が降りたようでした。
そこから、「真の自己統合」と「心的充足」に至る道に入りました。取り組まなくてはならないことが、たくさんありました。
丹念な「浄化」の作業です。
機織りをするように、自己の所有エネルギーを、心的にも因果的にも詳らかにしては、意識の改良を重ねました。
(このワークの土台にある西洋錬金術師の思想と、時も空間も大きく隔たりのある、古代東洋思想とに、同じ原理が謳われていることに気づき、タオセラピー発見に至りました)
その成果により、13年経た今、「私は何者か」の答えを、体験的に掴み取ることができました。
晴れて当初の「悩み」から「自由」になったのは、どこの精神的サポートの現場においても教えてくれることのなかった、オンリー1の<命の秘密>を守り抜く奥義を貫いたからでした。
13年前、意味もよくわからないまま、感じるままに絵を下ろしただけなのですが……。
今見ても、この一連の10枚に写し出された独自世界は、「己の経典」といって過言ではない、貴重な訓示です。
なぜかくもシャープに、「その人の存在の本質を炙り出せるのか?」
1500年代西欧錬金術師の豊かな霊感に感激させられました。
私の体験に限らず、その後、ご縁あったクライアントの皆様にも同様の「自己発見」の流れが起きたからです。
「何が問題で」
「何を癒して」
「何を乗り越えて」
「何を受け入れて」
「何にならなくてはならないのか」
ーーー目には見えない無自覚の「真実」を、見事に切り取ってくれるのです。
先哲の画才もさることながら、10年の歳月をかけてラテン語を学び、溢れかえる類似文献から、「この挿絵こそが重要価値」と選り分けたユングの功績にも、感謝いっぱいです。
ここでは、私の体験の記録をご紹介します。
「そういう風に、苦しみを解釈するのか」
「そういうふうに苦しみから脱出するのか」
あなた様の処世とアイデンティティ探しのヒントにしていただけたら幸いです。
以下、この作業の果てにある世界観について。
錬金術師たちの文献より。
「ソロモンは、いかにしてこの知識が灯りとして役に立つか、またいかにしてそれがあらゆる美と健康よりも
高く評価されるかを
示した。
これと比べれば、
彼にとって宝石の価値は
取るに足りない。
なぜならいかなる金も
《石》に比べれば
つまらない砂のようであり
(※「石」とは、この絵の
作業の最終形ー著者加筆)
銀はそれと比べれば
粘土のようだからである。
それゆえもっとも純粋な
金と銀を手に入れるよりも
《石》を手に入れるほうが
よい。その果実はこの世の
いかなる財貨よりも
価値があり、またこの世で
いかに望ましく思われる
物でも、これと比べうる
ものはない。その右手には
長寿と健康が、
その左手には
賞賛と無限の富がある。
その道は美しく賞賛に
値する方法であり、
侮ることはできず、
またその歩みは
穏やかであわただしい
ものではなく、
むしろ粘り強い仕事と
結びついている。
《神の智慧ないし知識》は
それを理解する人々
すべてにとって
生命の木であり、
けっして消えることのない
光である。 それを
理解した人々は救われる。
なぜなら神の知識は
アルフィディウスが
証言しているように、
けっして消えることが
ないからである。 すなわち
彼は言う、『ひとたびこの
知識を発見した者にとって、
それは当然の(あるいは真の、
すなわち正当な)永遠の
食物となるであろう』」
(※ここでいう「神」とは
「集合的無意識」に
響くもののこと
ーー著者加筆)